平成30年5月
ふね遺産認定実行委員会
歴史的で学術的・技術的に価値のある船舟類およびその関連設備を「ふね遺産」(Ship Heritage)として認定し、社会に周知し、文化的遺産として次世代に伝えるため、日本海洋船舶工学会は昨年度よりふね遺産認定事業を実施しています。
5月17日に開催された第2回ふね遺産審査委員会での審議により、第2回ふね遺産認定案件として下記8件を決定しましたので、概要をお知らせ致します。第2回認定式は平成30年7月20日(金)に明治記念館(東京)にて執り行われます。
第2回認定案件
認定案件 | 所有者 / 所在地 |
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氷川丸 昭和初期の技術を今に伝える現存貨客船 |
日本郵船(株) |
海王丸 現存する最古の日本建造練習帆船 |
公益財団法人伏木富山港・海王丸財団 |
徳島藩御召鯨船「千山丸」 江戸時代に建造された,現存する唯一の,大名の船 |
徳島城博物館 |
コンクリート貨物船「第一武智丸」および「第二武智丸」 我が国初の自航式コンクリート貨物船 |
広島県 |
川崎造船第1ドック 難工事を克服した、日本人技術者による神戸港初のドライドック |
川崎重工業(株)神戸工場 |
大日本海志編纂資料 江戸・明治期の造船、海事に関する歴史資料 |
東京大学 駒場図書館 |
粟崎八幡神社の船絵馬 弁才船の構造や航行の模様を精緻に描いた船絵馬の秀作 |
粟崎八幡神社 (石川県金沢市) |
練習船「霧島丸」の遭難碑 練習船の革新を促した海難事故を今に伝える |
鹿児島大学 水産学部 |
審査委員会委員(順不同、敬称略)は次の通りです。
昭和5(1930)年に竣工した貨客船で、戦前は北米航路に就航し、戦中は病院船、戦後は復員船、引揚船あるいは物資輸送船として活躍しました。横浜港に係留後は、海事・海洋思想普及のため一般公開が現在も続けられており、社会・経済史上大きな役割を果たしました。
全長163.3m、総トン数11,622トン、最高速力18.38ノット、2軸2舵、ディーゼルエンジン搭載で、客船でありながら優れた貨物搭載能力をもち、SOLASを先取りした水密区画配置、アールデコ様式の内装、北太平洋航路対応の強固な船体構造等当時の最新技術が取り入れられました。
また、航海日誌、図面等の資料も多数現存しています。
昭和5(1930)年に進水したバーク型帆船です。帆船日本丸とほぼ同時期に、同じ造船所(川崎造船所)で建造されました。両船とも仕様はほとんど同じです。
全長97.05m、総トン数2,238.40トン、定員168名で、59年の永きにわたり多数の船員を教育し、現役を引退した現在も、海事思想普及活動に貢献しています。
船舶検査上は平水区域を航行することが可能な練習船として、伏木富山港に動態保存の形で係留されており、内部見学が可能です。
また、図面や公開の記録など多くの資料が現存しています。
安政4(1857)年に建造されて現存する唯一の実用に供された船です。藩の鯨船は捕鯨用の猟船の形式を有した高速船で、引船や使者船として用いられました。本船はその豪華な装飾からも大名自身が乗船したと考えられます。
全長10.44m、幅1.75m、深さ0.645mです。接合の仕方、板の矧ぎ方など、当時の造船技術の詳細を今に伝えています。
船側には団扇の絵が色彩豊かに描かれ、船首材には昇竜の彫り物が取り付けられているなど、美術的にも優れた意匠となっています。
本船は「蜂須賀家御船絵巻」などその当時の絵図にも実際に登場しています。
両船とも昭和19(1944)年、兵庫県の武智造船所で竣工し沿岸航路に就航しましたが、昭和22(1947)年に防波堤として払下げられ、昭和25(1950)年に沈設完了しました。
本船の主要目は垂線間長さ60.0m、満載排水量2,200トン、総トン数800トン、載貨重量980トン、主機関 ディーゼル750馬力1基、航海速力9.5ノットです。
わが国最初の本格的なコンクリート貨物船で、鋼材が不足する中、昭和20(1945)年には25隻の建造が計画されますが、戦争終結のため果たせませんでした。
欧米では多くの自航式コンクリート貨物船の建造実績がありますが、わが国には4隻しか建造例がなく、その中の最初の2隻がこの「第一武智丸」と「第二武智丸」です。
明治35(1902)年に完成し、111年にわたって稼働後、平成26(2014)年に、破壊することなく埋め戻された石造りの近代的造船ドックです。
建造時の内法は長さ130m、幅15.7m、深さ5.5mで入渠可能最大船舶は6,000総トンでした。
計画期も含め10年にわたる難工事は、それまでのように外国人ではなく、日本の技術者、山崎鉉次郎によって主導されました。
明治36(1903)年に山崎がニューヨークのA Journal of Civil, Mechanical, Mining and Electrical Engineersに発表した論文には、同ドックの設計、建設の模様が詳しく述べられています。
明治16年(1883)に農商務省駅逓局から古来船舶調査事業を引き継いだ海軍省が「大日本海志」を編纂する目的で収集した資料約820点が保存されています。特に水軍書と造船関係資料が充実しており、他に比肩するものがありません。
また、資料の収集は写本の作成を原則としたにもかかわらず、島津家等が原本を寄贈したため、秘伝書及び各種の船舶図面の原本が多数まとまっており、他に類がありません。
これらの資料の原本は図書館の貴重書室で保管されていますが、大部分の資料はデジタル化してインターネット上で一般に公開されています。
19世紀初頭から幕末にかけて、地元粟崎の廻船問屋木谷家などから奉納された船絵馬11件です。船絵馬の黄金時代といわれる文化期~天保期の秀作が揃っています。
また弁才船の構造や艤装が精緻に表現されており、和船技術を研究する上で極めて重要な資料となっています。
特に文化14(1817)年と天保2(1831)年の大絵馬は、周囲の風景も含めてジオラマ的に描かれており、船絵馬の傑作と言われています。
他に類例がない、空船を描く4面の絵馬や、船絵馬師の落款が初めて入った文化8(1811)年の万徳丸の絵馬(右図)などユニークな絵馬も所蔵しています。
1927年3月9日、県立鹿児島商船水産学校の練習船『霧島丸』(998トン、4本マスト・バーケンティン型)は、南洋への遠洋航海中に海況の急変による壮烈な嵐に遭遇して犬吠埼沖で遭難し殉職者53名(実習生30名)を出しました。
この海難を機に世論が押し上げ、旧『日本丸』・『海王丸』の建造に至りました。加えて、日本の練習教育での安全性重視の理念のもとに旧航海訓練所(文部省)が設立されました。
本遭難に関するモニュメントとして、東郷平八郎元帥(当時)が揮毫した「壮烈」と題する石碑および記録物が鹿児島大学に残されており、犠牲者の氏名が刻まれています。
本遭難碑は日本近代練習船教育の礎となる事象を後世に伝えています。