広島大学大学院先進理工系科学研究科 (日本船舶海洋工学会西部支部事務局) 坂本 直子
鞆の浦 (とものうら、広島県福山市) は、「万葉集」にも詠まれた最古の港の一つです。瀬戸内海のほぼ中央に位置し、「潮待ちの港」として、中世、近世を通じて海上交通の要衝として栄えました。
江戸期の港町の多くは、戦災や高度経済成長の波によりその姿を消してしまいましたが、鞆の浦の町並は、江戸中期から街路がほとんど変化しておらず、そこへ伝統的な町家や社寺、石垣などの石造物等が一体となって現存し、瀬戸内の港町の姿をよく伝えています。特筆すべきは、江戸後期から明治にかけて建造された港湾施設 (雁木・常夜灯・波止・船番所・焚場) がほぼ揃って現存する唯一の例である点です。鞆の浦に残る江戸時代の港湾施設について紹介いたします。
雁木とは階段状の船着き場のことで (図1)、これにより潮の満ち引きに関わりなく船を着岸することができます。満潮時には雁木の上端の方が岸壁となり、潮が引くとともに一段ずつ下方の雁木が使われ、干潮時には最下段が役に立ちます。鞆港の雁木は、半円形の港内全長にわたりほぼ連続的に巡らされており、その規模は全国に類を見ないものです。雁木最上段付近に、円筒状や角柱状の船繋石 (ふなつなぎいし) が等間隔で並んでいます。
灯台の役割を果たしていたのが常夜灯です (図1)。常夜灯は、航海の守護神であった大坂住吉大社門前の高灯籠 (たかとうろう) が著名でした。そこで、瀬戸内海各地の港町にも住吉神社を祀り、高灯籠を模した常夜灯が建てられていました。鞆の浦の常夜灯は全て石造で、安政六年 (1859) に造立されたことが刻銘から分かります。江戸期の石造常夜灯としては、全国最大級のものです。北面に「當所祇園宮」(現:鞆町沼名前神社)、南面に「金毘羅大権現」(香川県、金刀比羅宮) の石額を掲げ、それぞれ該当する方向の神社に対する寄進灯籠という形態をとっています。航海の無事を祈願する一方、日没になると灯明を点し、港へ入る船の目印となりました。
波止 (波戸) は、石垣で築造された防波堤のことで (図2)、鞆港南東より海に向かって途中で折れ曲がり突き出しています。全長146メートルで、加工された大ぶりな花崗岩を規則正しく並べ、波から受ける力を和らげるために石垣は上角に丸みをつけた台形の断面となっています。内側を一段低くし、数か所には雁木を設け、船着き場も兼ねています。江戸後期に築かれ明治期に修築されていますが、江戸期の姿を残す現役の波止としては全国最大のものの一つです。
波止の根元の高台に、港内を見下ろすようにして建つ民家は、かつての船番所(船の出入りを管理) の跡です。建物は大正期の再建ですが、基礎となっている石垣は、船番所当時のものです。
焚場とは、木造船の船底に付着したフジツボなどを取り払うために船底を火で焼く場所のことで、広範囲にわたって海底に石を敷き詰めた構造物です。現在、地上からは見えませんが、その所在場所 (鞆の浦の町並西端近くの海中) や規模などが確認されています。焚場を有した港湾は多くはなく、鞆の浦が特に重要な港であったことを示す大切な指標といえます。
その他に港町の面影を残すものとして、土蔵 (どぞう、港湾倉庫) があります。江戸、明治期の港町では、海に面して土蔵が林立する景観が多く見られました。現在、「いろは丸展示館」となっている建物は19世紀中期の建築と考えられ、二階建で奥行きのある大型の土蔵の現存例です (図3)。
また、鞆の浦の町並を歩くと、町家の梁 (はり) に塩木 (しおぎ、海中に長期間沈めて塩分を染み込ませ、防虫処理したもの) が使用されていたり (図4)、蔵の壁にリサイクルされた杉の船板が使われていたり (図5)、港町の風情を感じることができます。
坂本 直子
広島大学大学院先進理工系科学研究科 (日本船舶海洋工学会西部支部事務局)
文化財学