我が家から見えるSSK [拡大画像] |
「じいちゃん、あのデカか船はなんね?」
「あれは、SSKの船たい。」
これは、今から数十年前の幼い私と祖父の会話です。私の実家は佐世保重工業を見下ろす丘の上にあり、物心つく頃から造船所を見ながら育ってきました。「エスエスケーってなんやろか?」という疑問は、船を眺めながらその頃の私がいつも思っていたことです。今回は、そんな私の疑問に答えを出すべく、佐世保重工業の歴史を調べてみました。
佐世保重工業のルーツは、明治22年 (1889年)、佐世保に設置された海軍鎮守府です。明治36年 (1903年) には、佐世保重工業の前身となる造船施設、海軍工廠が設置されました。100年以上前の話です。
ちなみに、海軍鎮守府が設置された明治22年当時の佐世保は、人口5,000人足らずの村だったらしいのですが、軍港の設備と共に市街地の発展、鉄道の開通などもあり、人口も増え続け、海軍工廠ができる1年前には人口50,000人を突破、「村」から一気に「市」に制定されました。
太平洋戦争終戦とともに、佐世保海軍工廠は閉庁され、海軍工廠の施設はGHQの管理下に置かれました。終戦時には50,000人超を数えた従業員も終戦の混乱のなか次々と四散し、1,600名程にまで減少してしまいます。佐世保の市街地も度重なる空襲により焼け野原となってしまったそうです。そんな佐世保を復興させるのに造船業の再開は欠かせないものとして、復興計画の第一案に「佐世保港の商港としての活用、旧海軍工廠を艦船修理工場にすべくもしくは民間造船所として転換利用する」という案が作られ、旧海軍工廠は、民営化の道を歩み始めます。
日章丸、進水式の様子 [拡大画像] |
昭和21年 (1946年) には、多くの人の尽力と支援によりGHQから許可を受け、「佐世保船舶工業株式会社」として再出発することとなります。この時の「Sasebo Senpaku Kogyo (佐世保船舶工業)」の頭文字が、なんと現在も佐世保重工業株式会社の通称となっている「SSK」だったのです。まさか日本語の略だったとは。その後、昭和36年 (1961年) には現在の「佐世保重工業株式会社」に社名を改めましたが、佐世保市民には馴染みの深い「SSK」という略称はそのまま残されることになりました。生活に馴染んだ略称をそのまま残したことで、佐世保重工業は現在も佐世保市民から親しまれる企業となっているのではないでしょうか。
社名変更の翌年昭和37年 (1962年) には、当時世界一となる13万トン型タンカー「日章丸」を建造し、世界に向け日本の高い造船技術をアピールすることとなりました。進水式には20,000人もの見学者が訪れ、世界一の巨船に多くの拍手が送られたそうです。
佐世保重工業はその後も多くの苦境に立たされながらも、その都度、従業員をはじめ協力会社の尽力、その他多くのかたがたの協力によって、民間転換から63年、旧海軍工廠時代から数えると、100年以上の歴史を積み重ねて今に至ります。
近年は、老朽化した設備の改修や新設に力を入れ、立地レイアウト上の制約を受けながらも作業環境は充実されつつあります。また、技能継承、環境対策においても様々な取り組みがなされ、技術力と美しい佐世保を次代に繋ぐ努力も続けている最中です。
ベランダから建造中の大きな船を見ながら、「あん船はどこに行くっちゃろか?」などと思っていた私も今では大人になり、その佐世保重工業に就職し今度はドックや係船池で建造船を眺めながら、昔と同じように「あの船はどこまで行くとやろか?」と考えたりしています。三つ子の魂百までとは言いませんが、あまり変わってはいないようです。
松口勇介 佐世保重工業(株)造船設計部 |