筆者の父は高校球児として甲子園に出場した。筆者は父と同じ高校の野球部の道を選び、甲子園を目指し3年間頑張ったが夢は叶わなかった。そんな筆者に、当時の佐世保市審判協会の会長が「川本君、野球の審判をしてみんか?」と声を掛けて下さった。
話を聞いてみると、審判員として甲子園に行ける可能性があるという。審判員だなんて恥ずかしい、しかし甲子園に行きたい、と葛藤していた私の背中を押してくれたのは、会長のさらなる言葉である。「俺が生きていれば甲子園に行かせてやるから、審判員になってくれ。」この、孫ほど年が離れた筆者に掛けて下さった言葉と、父に追いつきたいという思いで審判員になる事を決心した。
だが「甲子園で審判をする」という夢を叶える為には、いくつもの壁がある。「年齢」、「経験年数」、「長崎県への甲子園派遣依頼」、さらには、長崎県内での他審判員との競争である。特に立審回数は重要であり、筆者の昨年の立審回数は、佐世保地区内で4番目に多い105回であった。シーズン中、休日は無いに等しいが、競争に勝って初めて長崎県代表として審判する事ができる。
今年で審判員歴7年目になる。長時間の試合やファールチップによる怪我、選手が放したバットが耳に当たり負傷交代したつらい経験もある。ひとつひとつのプレーに対し、瞬時に判断してジャッジしなくてはならない。そのジャッジが試合を左右する事もあり、ジャッジに喜ぶ選手もいれば涙を流す選手もいる。審判員でないと味わえない感動や奥深さを感じる事ができる。審判員として甲子園に行くぞ、その思いでやってきた。
甲子園へいける保証はない。一生に一度のチャンスかもしれない。でも甲子園への夢を審判員として実現するため、年間100試合以上の立審回数をひとつの目標として努力していきたい。「ストライク!」甲子園に響くことを夢見ている。
川本翔吾 佐世保重工業(株)造船設計部生産設計課 吊環業務 |