博多港には、市民ボランティアが博多港の役割、港の機能などを伝えるポートガイドという制度があります。行政に代わって一般の市民が港の魅力を紹介するユニークな取り組みとして、全国的にも注目されています。福岡市港湾局主導の下、平成14年に発足し、現在は10名のスタッフが小学生の社会科見学から高齢者団体の見学まで、幅広い多種多様な市民団体の港見学ツアーに交代で対応しています。
この活動は、行政と地域住民、ボランティアガイドが協力し、公共インフラである港の理解を深めるための試みであり、多様な主体による参加と連携で、ひいては、豊かな地域づくりに繋がるものと期待されています。
博多港は太古の昔から、アジア諸国への玄関口であり、西暦57年奴国の王が受け取った「金印」を初め、多様な文化交流を通して、多くの文物が入ってきました。7〜8世紀には大宰府政庁の管轄の下、迎賓館としての鴻臚館が博多港の近くに設置されました。その後、迎賓館から貿易センターへと、その役割は変わりましたが、その頃260年近く続いた遣唐使の船出も博多港が出発点でした。さらに9世紀の初頭、進んだ仏教文化を携えて帰朝した高僧空海の上陸、12世紀における平清盛の博多進出と我が国初の人工島「袖の港」構築、それによる日宋貿易の推進、さらに鎌倉時代初期における高僧栄西による禅宗と茶の伝来、少し遅れて円爾弁円(聖一国師)によるそばや饅頭など粉食技術の持ち帰り、付き人が持ち帰った唐織の技術による博多織や、妙楽寺に来た中国僧が持参したういろうなど、いろいろな「博多港はじめて物語」が秘められています。
また、二度の蒙古襲来と元寇防塁の造築、室町幕府と勘合貿易の基地としての繁栄、その利権を巡っての戦国武将の争い、豊臣秀吉の博多再建とその保護の下での博多豪商の活躍など、これらはすべて博多港および博多の町が舞台でした。
ところが、江戸時代になると、徳川幕府の鎖国政策によって、博多港は海外への門戸を閉ざされ、落日と深い眠りの時代に入ります。しかしながら、博多の男達はじっとしていませんでした。この逆風の時代を逆手にとって、内航海運の基地、筑前五か浦の繁栄へと結び付けていきました。
千石船とは、江戸時代から明治初期にかけて全国的に物資を輸送した弁才船(べざいせん:大型の帆による帆走専用船のことで、少人数による大量物資の輸送が可能な貨物船)のことです。当初は300石積前後の中型船でしたが、次第に改良が進み、大型化して1000石積のもの、あるいはそれ以上のものも現れました。大型の千石船は、米俵の四斗俵2500俵(150トン)を積むことができました。
当時、博多湾内には、能古(のこ)、今津、浜崎、宮浦、唐泊(からとまり)という筑前最大の五つの浦があり、千石船による内航海運の基地として栄えました。
その社会的背景としては、都市の成長と消費需要の拡大が考えられます。すなわち、江戸幕府の設置に伴って、諸大名の参勤交代や江戸における武家屋敷の建設が進み、多数の武士や町人が集まるようになり、人口が急増しました。また、大坂も西の商都として人が集まり、急成長しました。そのため、生活物資の輸送需要が増加し、地方と大都市を繋ぐ交通網の発達が促されました。陸上では街道と宿駅や旅籠の発展、海上では航路の開設や港の整備が進み、廻船業発達の素地が形成されました。廻船には「菱垣廻船」「樽廻船」「塩廻船」などと呼ばれる積み荷に応じた専用船がありました。
この頃、伊勢の豪商 河村瑞賢は日本列島を回航する東廻り航路(東北太平洋岸を通って江戸へ)と西廻り航路(日本海側諸港を通って大坂へ)を開発し、ハード・ソフト両面での商品流通網の整備を進め、廻船業発展に大きく貢献しました。主に日本海沿岸で活躍した廻船である北前船は特に有名で、全国的によく知られていますが、筑前地方においても、全国の海を股にかけ繁栄した筑前五か浦廻船が誕生し、博多港の歴史の栄光の一ページを飾りました。
筑前五か浦廻船の最盛期は享保年間(1716〜1736)から宝暦年間(1751〜1764)の頃で、船の規模は最低でも730石積み、最大規模のものでは2000石積みまで現れ、船舶数は五か浦全体で50隻を超えたと言われています。当初は江戸、大坂への藩米を輸送していましたが、時の経過につれて積み荷の範囲が拡大し、材木や海産物などの地域特産品など、とにかく儲けにつながるものは何でも運ぶようになりました。また、航行範囲も北海道、東北方面にまでおよび、全国を股にかけ活躍したのです。
筑前五か浦廻船の繁栄の上で、大きな役割を演じた人物がいます。それは筑前屋作右衛門という人物で、江戸において幕府の依頼を受け、五か浦廻船の差配(ハンドリング)を好意的に取り仕切った有力なパトロンでした。
このように、時の運、人の助けに支えられ、繁栄の頂点に達した筑前五か浦廻船も、数多くの遭難事故と他国廻船との競争激化によって、やがて転機を迎えます。廻船業は莫大な収入を生む反面、厳しい自然との戦いでした。「板子一枚下は地獄」と恐れられ、船乗り達の間では船霊信仰が盛んでした。この時代、遭難は日常茶飯事で、享保13(1728)年には五か浦廻船が鹿島灘で一度に16隻も遭難、その後も同様の事故が続きましたが、それでも海の男達は海運業を止めませんでした。その魅力は、生命の危険と引き替えに成功した場合に得られる莫大な利益と、厳しい試練の後に得られる船頭への立身出世の夢だったのです。しかし、遭難による船舶の喪失が廻船業に与えた打撃はやはり大きく、次第に衰退の一途を辿ることとなりました。また、遭難によって、フィリピンやインドネシアあたりまで漂流して、波乱万丈の体験の後、今浦島となって鎖国とキリシタン禁制の母国に帰り着き、幕府の厳しい取り調べを受け、不遇な一生を送った悲劇の物語(孫七漂流記など)もいくつか残っています。
19世紀に入ると、多くのドラマを生んだこれら廻船業はさらに衰退を続け、次第に江戸幕府の保護も失い、明治に入ると政治経済のシステムも変わって、やがて多くの船主達はこの輝かしい海運の世界から消えていきました。
明治以降の博多港は、西南の役での官軍側の物資輸送基地になりましたが、その頃から近代港湾として徐々に歩み始め、明治32年に至り、正式に関税法に基づく対外貿易港として開港となりました。その後は九州経済の成長とともに、多少の紆余曲折はありましたが一貫して拡大を続けています。平成19年の港勢統計によると、国際海上コンテナ取り扱い数は約75万TEU、外国航路の船舶乗降人員は84万4千人となり、年々増加しています。
開港以来すでに110年近くを経過、現在では「海に開かれたアジアの拠点都市」福岡のゲートウェイとして、博多港はますます発展を続けています。
榎田 裕一(えのきだ ゆういち)
博多港ポートガイド
地域経済
(KANRIN (咸臨) 第20号 (2008年9月) 発行当時)