トップページ > シリーズ 港の横顔 > Vol.012 - 学会誌 KANRIN (咸臨) 第28号(2010年1月)より

シリーズ 港の横顔 Vol.012 横浜港 開国博Y150とポートトレイン」


1. 横浜開港150周年


写真1 横浜ベイサイドエリア

写真2 大桟橋から赤れんが倉庫を見る

写真3 旧横浜港駅プラットホーム(復元)

横浜は昨年2009年に、開港150周年を迎え、4月28日〜9月27日の153日間の長期に亘って150周年記念イベント「開国博Y150」が開催されそれに伴い、様々な行事が実施された。全国的には、巨大な蜘蛛の動くオブジェが人気だったようだ。

これらの催しの多くは、写真1で示したベイサイドエリアと呼ばれる新たに横浜港周囲を区画整備したイベント会場で開かれたが、そのエリアの中には写真2のような「赤れんが倉庫」や「象の鼻公園」など横浜港の歴史を語る上では無視できない施設が数多く見られる。

これらは全国的にも横浜の観光ランドマークとして良く知られている施設と思う。その代表格と思われる赤れんが倉庫の近くに、観光客に恐らく違和感を抱かれるであろう真新しい駅のプラットホームが線路らしい線路もなく、ひっそりと佇んでいる。このプラットホームは横浜在住の方は良くご存じかと思うが、それ以外の方々にはおそらく「何でこんな所に?」、「港とどういう関係があるの?」という疑問を生じさせるような違和感がその場にはある。

そこで、この機会を借りて、今となってはメジャーな観光施設ではないが、かつて横浜港には無くてはならなかった施設の一つ、このプラットホームを紹介したい。

2. 横浜港駅プラットホーム

このプラットホームは、旧横浜港駅(よこはまみなとえき)を再現した施設で、実際のプラットホームは1920年〜1988年の長きに亘って使用されてきている。

それでは、なぜ横浜港に駅が有ったのか?
ご存じの方には、「釈迦に説法」で申し訳ないが、ここで簡単に歴史とその意義を紹介する。
下記は、開港博Y150の、ある催しで著者が実際に受けた現地ガイドの方からの説明である。

『前の戦争前までは、海外への旅行は飛行機ではなく船が常套手段でした。いまは簡単ですけどね、当時はかなりのお金持ちか政府の高官じゃなけりゃあ・・・。庶民には到底無理な話だったんですよ。まあ、飛行機を使うなんてのは、当時はまず無くて、ごく最近ですしね。いまのように気軽に海外旅行できるわけもなく、日数もかかるし、船による旅行の際の見送りはかなり盛大だったんですよ。その人数、千人近くは居たんじゃないんですかね。私もまだ生まれてなかったんで・・・・、記憶が定かでは無いんですが。見送りのための都市部から港までの交通手段として、この港駅が利用されておったんです。もう少し言うと、横浜では東京の人達が、この列車を使ったんです。これは一般にポートトレインと言われておって、横浜の場合は東京〜横浜〜サンフランシスコを結ぶための鉄道だったんです。ここの他に日本全国に横浜港駅のような港駅(みなとえき)はかつて幾つか存在していて、新潟港駅〜満州国(現長春)、敦賀港駅〜ウラジオストク、神戸港駅〜欧州方面、その他、長崎港駅等があったんです。』

つまり、この駅は船出する旅行者や彼らを見送りをする人を運ぶための施設であったということだ。

旅行そのものが容易で、また個人で移動することを容易にしている自動車やバイクがこれだけ広まっている今となっては、何か浮世離れした感覚の施設であるが、当時はこの施設が如何に使われてきたかは、全国に幾つもの同様の施設が多数有ることから事実なのだろう。海外を目指す人にとっては貴重な施設だったはずだ。この新しく再現されたプラットホームの説明盤には以下のように書かれている。
Old Platform of "Yokohama Minato" Station


図1 プラットホームと4号岸壁

「横浜港駅」は、明治44(1911)年、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、大正9(1920)年7月23日、「横浜港駅」となり、東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれました。列車はその後、「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれました。関東大震災の復興期、昭和3(1928)年当時の花形外航ターミナルにそって旧「横浜港駅」の「プラットホーム」が設けられ、華やかな海外航路時代の最盛期をむかえました。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用にあたり、傷んでいた上屋は新素材で復元しています。
とある。この説明文の脇には、図1のようなイメージ図があって、プラットホームと岸壁が4号上屋と言われる建物で接続されて、汽車を降りれば直ぐに岸壁であったことがわかる。

3. さいごに


写真4 象の鼻公園からみなとみらいへ

今回、横浜開港150周年を記念した「開国博Y150」開催のおかげで、現在は全く日の目を見ることが無くなり消失しかかっていた施設を多くの人々が知る機会を得られたことは、非常に有意義な事だと思う。

開国博無しには、こうした昔の人々の生活に関わる歴史的に重要な施設は消えてしまっていただろう。
ただ、残念なことは、あまりに整備され美化されてしまった幾つかの施設が、何かどこかの新しいテーマパークのように形成されてしまったことだ。このプラットホームも何か真新しく、100年近く前の施設の面影は全く無い。写真4にも示した象の鼻公園も確かに綺麗だが、開港当時を思い起こさせる施設には思えない。

もっと、観光客向けだけではなく、生活に根付いた古びた施設が有っても良いように思うと感じた開国博Y150の施設であった。



甲斐 寿(かい ひさし)

横浜国立大学大学院工学研究院
准教授
数値流体力学、推進工学
(KANRIN (咸臨) 第28号 (2010年1月) 発行当時)

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