シリーズ2回目の今回は、常石造船(株)多度津工場建造部外業グループにおいて、溶接チームリーダーを務める「かっこいいオヤジ」、宮田龍市さんを紹介します。
昭和49年10月、宮田さんは波止浜造船(当時)に入社した。入社後3ヶ月に渡って溶接技能の研修が行われたが、宮田さんは常に研修生の中でトップになることを意識して研修に取り組んでいた。昼休みの休憩時間にも、指導教官の許可を得て同僚がタバコを吸う姿を横目に、「これで棒一本分勝った」と思いながら溶接の練習に励んだ。
研修が終わってからも、宮田さんの仕事に取り組む熱心な姿勢は変わらなかった。宮田さんが溶接技能者としての腕を磨いていた昭和50年代には、スポットクーラー等の設置はまだ少なく、真夏のタンク内における溶接作業の現場においては、気温が60℃に達することも珍しくなかった。そのような環境の中で溶接作業を行っていると、暑さでのぼせ、ひどいときには下を向いただけで鼻血が出たという。しかし、鼻血を出して作業を中断していたのでは、周囲の同僚に差をつけられてしまう。人一倍負けん気の強い宮田さんは、ずっと上を向いたまま(!)溶接作業を続けた。
「今だったらそんなことする人は一人もおらんやろう」と宮田さんは振り返る。同じ仕事に従事し、その技術を競い合う同僚の存在、また「誰にも負けたくない」という強い気持ちがあってこそ、成し遂げられたのだろう。また、その結果として、「(仕事に関しては)誰にも負けたことがない」と自信を持って言える優れた技術および豊富な経験を蓄積していった。
宮田さんの信念は、「何事に対しても前向きに取り組む」ことである。前向きに取り組む姿勢が欠けたら終わり、自分に負けても終わりと考える。自分に甘くすれば、それは他人に見透かされる。従って、自ずと自分に対して厳しくなる。そのような信念に基づき、経験を蓄積していった宮田さんは、いつしか多度津工場のみならず、近隣造船所においても、半自動溶接の分野における第一人者となっていった。
現在、宮田さんは取得が最も難しいと言われる日本溶接協会の溶接技術検定JISZ3901(A-3F, A-3V, A-3H)をはじめ、日本海事協会WEO 01S1191 S-A2A、ガス溶接技能者等の資格を保有している。さらに、溶接技術だけではなく、玉掛技能者、フォークリフト運転技能者、高所作業車、運転技能者、アーク溶接、特別教育、安全衛生等のさまざまな資格も取得している。
さらに、平成14年には、輸送用機械器具製造の業種、溶接の職種において、平成14年(前期)香川県高度熟練技能者に認定された。「高度熟練技能者」とは、「機械では代替できない高度な技能を駆使して、高精度・高品質の製品・試作品等を作り出すことができる技能者、または機械が作り出す製品と同等以上の高精度・高品質の製品の製造や整備ができる技能者」1)であり、厚生労働省の委託により、中央職業能力開発協会において、その認定が行われている。
同協会ホームページ内の高度熟練技能者データベースにおいて、宮田さんの得意とする技能は、次のように紹介されている。
ドック内(外業)における、ブロック溶接作業で、最も溶接技能が要求される、高張力鋼の曲線部位、及び厚板・薄板継手部(板厚12m〜40m)の溶接作業で、予熱・後熱・溶接ひずみ、溶接割れ等を考慮した、最適な溶接条件が設定でき、アーク溶接・半自動溶接共に全姿勢溶接作業で無欠陥溶接(レントゲン検査)ができ、作業経験を基に作業改善に取組み成果を上げている。
以上のような豊富な経験と知識、卓越した技能により、現在では後進の若手技能者の育成が周囲から期待されている。指導対象となる技能者は日本人ばかりではなく、最近ではフィリピンや中国からの研修生の指導を行う機会も増えているが、2〜3年で入れ代わってしまう外国人研修生の育成に手を取られ、日本人技能者の育成に十分な時間をかけることができない現状が宮田さんを悩ませている。自分たちの世代が引退した後、この会社はどうなっているのかという危機感から、日本人リーダー育成の重要性を強く感じている。リーダーに求めるものは、溶接技術だけではない。「なんぼ溶接や自動溶接の頂点を極めても、それだけではだめなんだわ。ひずみも自分でとれないかん。取り付けも分からないかん。位置決めなんかも、ある程度分かってないと。何でもできる人材を育てないといけない」と宮田さんは考えている。このような厳しい言葉から、後継者育成を切に願う「職人」の思いを伺うことができる。
喜多村 和博(きたむら かずひろ)
設計部総合設計グループ
課長
基本設計
(KANRIN (咸臨) 第4号 (2006年1月) 発行当時)