本編の第4番目のトピックでは、ドックマスター第2弾としまして(株)川崎造船坂出工場で働いております田中秀彦ドックマスターを紹介致します。
我がドックマスターは、8年間の外航船の乗組員経験を積んだ後、現造船所の一員となられ、歴代の名物ドックマスターの元で腕に磨きを加えた後、19年間の長きに亘り奉職されており、その記録は今も塗り替えられ続けております。
日々の岸壁繰り時の操船に加え、建造全船の試運転時、ガストライアル時には必ず、出航から帰港まで片時も緊張度を緩めることなく、操舵室から船内全体に睨みを利かせ、長年培った熟練技で、スケジュールもしくは工程を効率的にこなす事はもちろんのこと、安全運航をモットーに、日々辣腕をふるっております。
小職が垣間見ました我がドックマスターの凄さ(その1)は、速力試験時のコース取りの正確さであります。
当社では、速力試験は日の御崎沖で徳島沿岸沿いのコースを設定し、助走距離は計測区間(1マイル)の南北にそれぞれ 6〜11マイルを設定し、DGPSを使用して速力計測を行っておりますが、この海域では黒潮の支流がコース沿いに流れたり、時としてコースを横切る流れが生じたりと、試験用コースを維持するという観点からは、条件の厳しい不規則な流れが発生しております。 近年、黒潮の大蛇行が収まり、以前の流路を辿る傾向がある中で、その現象は更に顕著に現れております。
坂出港を出港し、備讃瀬戸、明石海峡、大阪湾と言った片時も気の抜けない輻輳海域を通り抜けて、日の御崎沖の試験海域に至るわけですが、速力試験は、翌早朝試験海域での海気象を確認後、開始となります。試験開始前に、予めレーダー画面上に速力試験コース及び計測区間を表示しておきます。試験中ではドックマスターは、レーダーとコンパスだけで、往航航走時の航路沿いの潮の方向、流速及び場所を見極めておき、復路時のコース取りの参考にします。速力試験中の詳細なコース取りにつきましては、我々は DGPS画面上でスケールアップして確認できる訳ですが、その結果、速力試験の各機関出力での計測区間では、両方の航跡が1ケーブル(0.1マイル)と離れていない航跡を辿るといった熟達した技を我々に見せてくれます。
余談ですが、中国のとある造船所の試運転に乗船させて頂く機会を得た時の感想ですが、かのドックマスターの操船方法は我々から言わせて貰えれば、自由奔放でした。速力試験時のコース取りの際の操舵による速力低下には、あまり注意を払わず、往航時と復航時の航跡を合わすことにも、さほど努力を傾ける様子はありませんでした。
注意をお願いしても、長年この方法で速力試験を行っており、何の問題も生じていないとの答えが返ってきて、口あんぐりの状態でした。その他の性能試験時にも粗雑な操船を重ね、試験成績は、まるで同型船とは思えないような結果であったと記憶しております。
そういった例を見るに付け、我がドックマスターの優秀さが改めて実感されます。
そして、性能試験の開始時には、長年の経験を感じさせるダミ声で号令を掛け、その場に居合わせた者のベクトルを瞬時に一方向にまとめ上げる芸当は、常に当然のこととして受け止められております。
そして我がドックマスターの凄さ(その2)は、港内操船時の采配です。
工場岸壁への離着岸時には、船橋甲板ウィング端に陣取り、同僚航海士、操舵手、機関出力ハンドル操作手、索取り要員、船首と船尾のタグボートと緊密な連絡を保ちながら、それぞれの部署に同時進行型の指示を与え続けている様子を何年もの間、垣間見ておりますが、よくぞ情報を混乱なく捌き、適切な指示が出せるものだと感心させられます。
港内操船時のタグボートとの交信(号令)例としましては、
等々が耳に残っております。
これらの各号令の意味は、操船関係者にしか理解不能と思われますが、関係者の一糸乱れぬ所作は傍目にもいかにも頼もしく感ぜられます。
沢山のセンサーからの情報に基づき、緻密な経験に裏打ちされた瞬時の判断を言い淀む間もあればこその適切な指示の連発は、まさにマスターのマスターたる所以です。
これも余談ですが、或る前任のドックマスターが港内操船中、工場岸壁の手前半マイルくらいに近づいた時、突然、血相を変えて、「フルアスターン、船首アンカー用意」と声を張り上げたことが有りました。巨大船ゆえに、適切な判断を前倒しで部下に伝えておかなければ、数分後には大変な事態を招きかねないということを思い知らされ、また、瞬間瞬間の情報に基づいて、事至れば一瞬の躊躇なく、自身の判断に基づき、号令を発することが、いかに大切であるかを思い知らされた出来事でした。
その時は、幸いにしてアンカーの助けを借りるといった事態には至りませんでした。
そして我がドックマスターの凄さ(その3)は、自他ともに認める無類の酒豪ではありますが、ワッチに立っている時には、当然ではありますが、微塵も酒のサの字も感じさせないことでしょうか。
兎に角、酒については、いささかも人後に立つを潔しとしないとでも言いましょうか、下戸の小職が言うのでは、いささか迫力に欠けますが、ピーク時の酒量を還暦を越えた年齢でも維持し続けていることをとっても、十分伝説の域に入り得るものと堅く信じております。
小職が出向中の折、地元の日曜大工店でぶらぶらしておりましたところ、たまたまドックマスターと顔をあわせたことがありました。その時、「おい、どうしてる。また一緒に試運転に乗船しよう。」と声をかけて下さった事がありました。その時は、小職如きにそういう親しい対応をして下さることを嬉しく思いましたが、内心では、現職に復帰できるとは思っておりませんでしたので、中途半端な返事をするのが精一杯でした。
今現在の姿を当時予想していれば、もっと元気の良い言葉が返せたでしょうに。
このように周囲の者全てに、親しく口を利いてくださる我がドックマスターは、豪胆な風貌と熟達した操船術を併せ持っており、年数を重ねるにつれ、健康には人一倍気を遣いながら、酒量を微塵も落とさずに業務に邁進されております。
部外者の小職が口にすることは少々気が引けますが、現在のドックマスターの唯一の懸案は、後事を託せる優秀な後継者の育成ではないでしょうか。
それは現在の製造業全体が抱えている問題でもあり、一朝一夕に解決できるものでは有りませんが、兎に角、手を動かさないことには前に進まないことだけは確かなようです。
小石 直樹(こいし なおき)
(株)川崎造船 技術本部 造船設計部
総合設計グループ
設計職(参事)
船舶工学
(KANRIN (咸臨) 第8号 (2006年9月) 発行当時)