大島造船所のかっこいいオヤジ、ゴライアスクレーンの運転士、原成徳(はらしげのり)さんをご紹介します。原さんは、大島造船所が操業開始した昭和49年に入社。7年間の組立係勤務を経て、以降は建造係に所属。平成16年の定年後も関連会社に籍を移し、引き続きクレーン運転に従事しています。
工場全体を360度パノラマで臨む地上80メートルの運転席から、ブロックなどの重量物を運搬する、造船マン冥利に尽きる仕事。それが、ゴライアスクレーン運転士です。
大島造船所のシンボルであると同時に、島内最大の建造物でもあるゴライアスクレーン(写真)は、略して“ゴラ”とも呼ばれる。高さ90メートル、幅145メートル、定格荷重300トン。社名を掲げた2基のゴラは、当社の建造工程の要となる設備。
なお、当社のゴライアスクレーンは、銀幕デビューも果たしている。昭和62年、柴田恭兵と舘ひろしが主演の人気テレビドラマ「あぶない刑事」(テレビ版と映画版)のロケが大島で行われ、クレーンの上で、映画用のアクションシーンが撮影された。
佐世保で生まれた原さんは、小学3年生の頃、工場見学に訪れた佐世保重工業で、当時東洋一といわれた250トンクレーンを初めて見た。「君たちが乗ってきた観光バスを一度に25台、吊り上げられるんだよ」という説明に衝撃を受け、「僕は、日本一大きなクレーンを運転したい!」と思った。この出逢い以来ずっと、巨大クレーンへの憧れを抱き続けた。
18歳で、大阪の金属圧延会社に就職。そこで小型のクレーンを操っていたが、巨大クレーンへの夢を実現すべく、会社に内緒で「こそ〜っと」クレーン運転士免許を受検した(社内でクレーン運転士の受検は、電気系学科出身者に限定されていたため)。受検勉強は、まったくの独学。周囲の同僚にも隠していたので、寮の部屋(約10名の相部屋)では勉強ができず、頼りのテキスト一冊を片手に外出し、人気のない墓地で勉強した。
仕事を通して身につけた実技には絶対の自信があったので、「学科さえ通れば、絶対に受かる!」と信じて、猛勉強。その結果、みごとに一発合格を果たした。
27歳で故郷の佐世保に戻り、大型自動車の運転に従事していた頃、大島造船所に勤める親戚から声がかかった。その時原さんは、心の中で「しめた!」と叫んだ。
昭和49年、創業して間もない大島造船所に入社し、組立係に配属された。毎日のように仲間が増えていく、活気あふれる雰囲気の中で、造船マンとしての希望に胸をふくらませていた。
しかし入社4年目にして、第二次オイルショックが訪れた。工場の仕事量は激減し、工程を埋めるために小型船などを建造したが、組立棟の天井から小さく見えるタグボートに、不況の寂しさを痛感した。
当時、組立係のクレーンには荷重計がなかったため、重量のチェックが困難だった。そこで原さんは、設計からもらったブロック重量のデータとブロック吊り上げ時の電流量を記録し、電流と荷重の対比表を作成した。この、原さん手作りの「荷重計」は、現在も組立係で使われている。
組立係で7年間クレーンの経験を積んだのち、建造課に配属され、ゴライアスクレーンの運転を任された。幼い頃からの夢を実現した原さんは、天にも昇る心地だったが、決して浮ついたりはせず、新しい職場でもひたむきに貪欲に仕事を覚えていった。
組立から建造へ職場を移った結果、水切り場を除く全てのクレーンを運転した。平成元年には、日本クレーン協会より副会長賞を授与された。原さんは「事故を起こして、やっぱり普通の人だったと言われたりしないよう、受賞の栄誉に恥じぬ仕事をしよう」と、クレーン運転士としての決意を新たにした。
この33年間で大島造船所は大きく成長を遂げ、工場設備は次々と拡張されてきた。また、工場内にとどまらず、ホテルの建設や大島大橋の開通といった大島自身の発展も、運転室の窓を通して眺めてきた。原さんは、大島と大島造船所の歴史の生き証人といえる存在だ。
毎日を運転室で過ごし、地上との通話以外には交流もなく孤独だが、ひとつのミスが人命にかかわる作業には、慎重さと正確さが要求される。長年の経験と努力の積み重ねによる熟練の技術は、周囲からの信も厚い。「重量メーターを見ながら、3つのフックを同時に操れるのは原さんだけ」と若手も憧れるが、原さんいわく「難しい仕事を、さりげなくこなすのがプロ」。
また原さんは、自分が運んだブロックを、逐一手帳に記録し続けている。運転室の一角に積まれたこの手帳は、原さんの作業日誌であると同時に、造船所の歴史を語る資料となっている。
一番苦労したのは、クレーンの故障が多かった時期。特に、早出や残業でメンテナンス担当者がいない時間帯の故障が怖かった。しかし、配電盤などを収めるクレーン内の電気室にエアコンが完備され、それ以降は電気系統のトラブルが激減した。同時に、運転室にも扇風機に代わって設置されたエアコンにより、夏場の作業環境が改善された。この大工事の決断を下してくれた所長には、心から感謝している。
毎朝の出勤前、神仏に無事故を祈る。このお祈りを忘れると、その日の仕事は落ち着かないという。その几帳面さが、原さんの無事故を支えてきた。
現在取り組んでいる大きな課題は、技術の伝承。ほとんど子供や孫の年代の、職場の後輩約10名を相手に、月例で勉強会を行っている。今までに蓄積したクレーン作業のノウハウを、自筆で資料にまとめ、惜しみなく若手に伝授してきた。しかし、「知識や技術だけなら伝えられるが、熟練には、自分で考えて工夫することが肝要。仕事を愛し、真剣に取り組む気持ちが一番大事」と、原さんは強調する。
現在の目標は、「クレーンの無事故・無災害を継続する」こと。将来を担う若手運転士たちが、今後もこの記録を守り続けてくれることを期待している。
プライベートでは、料理洗濯から庭木の剪定まで家事全般をこなす一方で、趣味は、オートバイ、木工細工、短歌、墨絵など、驚くほど多彩。体力の維持にも余念がなく、将来の夢は「陸上短距離走の全国大会に出場し、シニアの記録を残したい」。
原さんが筆一本で描いた、七福神の墨絵を拝見した。丁寧な筆致に、人柄がにじみ出ている。重ね塗りができる油絵と違って、墨絵では一点のミスも許されない。この緊張感は、常に真剣勝負のクレーンの運転にも通じる。
原さん、これからも、クレーンの運転と若手の育成を、よろしくお願いします!
川内 弘(かわうち ひろし)
(株)大島造船所 設計部構造設計課
構造計画、システム担当
(KANRIN (咸臨) 第10号 (2007年1月) 発行当時)