たまに本人が出張や休暇で不在の時などは事務所の中がシーンと静まり返り、いつもの活気ある雰囲気からガラッと変わってしまう位、賑やかで存在感のある「元気印のオヤジ」を今回は紹介させて頂きます。
その人は「重量鳶」の匠、アイ・エイチ・アイマリンユナイテッド横浜工場修理部修理グループの彌富英雪(いやどみひでゆき)職長です。
当時最新鋭の工場であった石川島播磨重工業(IHI)横浜第2工場(現アイ・エイチ・アイマリンユナイテッド横浜工場)に入社した昭和46年は、折りしも20万トンタンカーの連続建造の真っ只中であり、その2年前の昭和44年には工場別年間進水量世界第2位を記録し、翌年の昭和45年には工場の月産組立加工重量が14,000トンを突破した、まさに造船業華々しき時代に「鳶」の人生が始まりました。
「重量鳶」は当時の花形職種で、プロペラ、推進軸、舵板、ボイラー、機関室内の大型ユニットなど、鳶職の作業の中でも主に重量物や大型設備の運搬、搭載作業や足場作業などを専門に行っていました。まだ地下足袋を履いて仕事をすることもあった頃の、毎日毎日現場を飛び回った目の回る様な忙しさが今でも懐かしく思い出される様です。
写真1「重量鳶」軍団,職区の班長に囲まれて
後列右側から2人目が彌富職長
入社時の配属先は船舶事業本部横浜工場艤装工作部機装1課でした。航空エンジン製造部門を希望していましたが、IHIから学校訪問に来られた担当者より「今は造船の時代です」と熱意ある説明を受け、それがきっかけとなり船との長い付き合いが始まったわけですが、当時主流の蒸気タービンエンジン、大型ディーゼルエンジンそして現在は護衛艦のガスタービンエンジンと、エンジンにかかわる作業も「重量鳶」の仕事を始めて39年間、今では切っても切り離せない作業であり最も重要な仕事の一つとなっています。
彌富職長は現在、修理に入ってくる商船や様々な作業船に加えて艦艇、潜水艦、時には新造艦艇も含め、これまでの「重量鳶」の経験を幅広い分野に生かし、新しい装置や治工具を活用した作業で職場を支えています。
東海村への長期出張を皮切りに、福島第一原発、扇島の川崎製鉄、福島第二原発、中部電力浜岡原発と、造船不況の際には現地工事が多く、作業道具一式を持ち歩いて電車を乗り継ぎ、各地で様々な仕事を経験しました。
修繕船のマーケットが活況を呈している頃に横浜修理船工場が発足し、当時世界最大級と言われた20万トンクラスのOBO(鉱油兼用船)や20万トンの原油タンカー、コンテナ船などの主機を蒸気タービンからディーゼル機関へ換装する主機換装工事や当時世界でもあまり例がない原油タンカーのFPSOへの改造工事など、大型の案件が連続しており、今思えば修理の活気と醍醐味を実感したこの頃の苦労と体験が現在の彌富職長の「自信と元気」に結び付いていると言えます。
またその頃には、シンガポール沖に於けるエンジンのクランクシャフト交換工事の応援を依頼されて1人で行くことになり、50トンチェーンブロックなどの道具を送って現地のインド人作業者と一緒になって重量鳶を演じる経験もしました。最初は非常に不安でしたが、ジェスチャーとスケッチを交えた会話でやり遂げた満足感は、外地の仕事と言うこともあり、これ又ひとしおのものであった様です。
職長に任命されてすぐには、コンテナ船の船底大型海難工事とLNG船のメンブレンタンクの補修工事が重なってしまい、作業者のやりくりなどに大変な苦労をして工事をまとめました。これが職長としての最初のハードルでした。
写真2 彌富職長の陣頭指揮風景
現在、横浜工場では技術、技能の伝承と人材育成を、よりスピードアップして進めるために、その牽引役として「教士」を各分野で任命しており、彌富職長は工場内で12人いる教士の一人として日夜様々な場面で後進の指導にあたっています。
職区内の若手一人一人に目標とする姿を描いて見せ、本人の技能レベルを見極め、経験年数、やる気を加味し、時には厳しく、時にはおどけて、アフター5も暖かく指導しています。
現在の横浜工場の修理は、潜水艦を含む艦艇、巡視船、浚渫船、漁業調査船、練習船、帆船、商船、LNG船、様々な作業船など多種にわたる船種の修理を施工しており、これらの足場仮設、重量物運搬作業などに関して、これまでに培ってきた幅広い技術、技能について、一人一人にテーマを与えながら伝承を進めています。
その姿はあたかも「早く俺を追い越せ」、「早く一人前の熟練工に育て」、「いつまで俺にやらせるんだ」とでも言っているかの様に見えます。
平成17年より新入社員も毎年配属され、若手の班長も育って来ていますが、彌富職長の高い技能と、幅広い技術で若手をリードし、技術、技能を確実に伝承して欲しいと思っています。
写真3 私が元気印の彌富です
これと言った趣味はないと言っていますが、仕事振りからは多趣味ではないかと思われます。仕事上のいろいろな場面で、様々なアイデアを使って作業を進めていく姿は、日常の生活の中からも多くのアイデアが湧いてきているのでしょう。これは仕事を離れても、いろいろなことに興味を持って取組んでいる証であり、決して趣味がないのではなく趣味が多すぎて敢えて言えないのだと思います。かなり器用な“オヤジ”です。
修理という仕事柄、土日出勤が多く、家族からも休日は当てにされない人達の多い職場ですが、彌富職長も例外ではなく、以前は仕事が趣味かのように土日も出勤していました。しかしながら、最近は子供さんも就職され、休日には奥さんと一緒に公園を散歩し、買物を楽しんでいる姿が見かけられます。これまで出来なかったことを一生懸命に取戻そうとするひた向きさは、正に仕事振りと通じるものがある様に感じられます。
そして休肝日(休日)を設けて健康管理にも目覚めたようです(?)。
酒は少し弱くなったようですが、まだまだ老け込まずに、若者に負けないで大声で叱咤激励して横浜工場を活気づけて下さい。
「元気印のオヤジ」さん!
鈴木 康平(すずきこうへい)
(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド
横浜工場 艦船修理部
修理部長
艦艇、商船及び作業船修理
(KANRIN (咸臨) 第30号 (2010年5月) 発行当時)
林 昇(はやしのぼる)
(株)アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド
横浜工場 艦船修理部修理グループ
修理グループ長
艦艇、商船及び作業船修理
(KANRIN (咸臨) 第30号 (2010年5月) 発行当時)